ルブヌィ (Lubny)
ルブヌィ地区の行政中心地であるが、ルブヌィ自体は行政上は地区に含まれず、単独でルブヌィ評議会(Лубенська міська рада)を形成する. 人口は2013年の時点で47636人. ポルタヴァ州の中で、ポルタヴァ、クレメンチューク、に次ぐ4位の人口規模である.
ルブヌィは、ウクライナ最古級の市として知られる. 沿スーラ川防衛線を構成する都市のひとつとして、キリスト教の受容を記念し、キエフ大公ウラジーミル1世によって988年に創建されたと言い伝えられてきた. ただし、文書として残っている最古の記録は1107年のものである. 当初はスラー川を見下ろす場所にある、木の塀で囲まれた小さな要塞都市だったが、急速に成長していった.
1107年8月12日、ルブヌィ近郊で起きたで、キエフ大公スヴャトポルク2世およびウラジーミル2世モノマフの軍が、ボニャークとシャルカンの率いるポロヴェツ族の軍を撃破した.
1239年、モンゴル軍の征服によって、ルブヌィの街は徹底的に破壊された. しかし、住民たちは周囲の森林や湿地帯へと逃げて、その豊かな自然のおかげで生き延びた後に街を再建した.
15世紀から16世紀ごろはヴィシュネヴェーツィクィイ家が支配していた. マクデブルク法で統治され、紋章もこのころ制定された.
1596年には、ポーランドに反乱を起こしたセヴェルィーン・ナルィヴァーイコによる最後の戦いの舞台となった. 17世紀までには、地域内で最大級の街となった.
フメリニツキーの乱が起きた1648年から1658年まではヘーチマン国家のミルゴロド連隊が、1658年から1781年まではルブヌィ連隊が領有し、その行政中心地となった.
1782年、ロシア帝国の管轄下で、ウエズドの一つとなる. 管轄は1793年に小ロシア県、1802年にポルタヴァ県に移る.
1901年に鉄道が通ると、ルブヌィの工業は大きく発展した. 地元の新聞紙が1917年7月に発刊した.